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王舎城の悲劇を知る

浄土真宗に関心を持っている方は、「阿闍世」という人物の名前を耳にしたことがあるでしょう。阿闍世は「王舎城の悲劇」と呼ばれるエピソードの主要な登場人物で、親鸞聖人は『教行信証』に引用しておられます。しかし、不思議なことに、親鸞聖人よりも前の日本の学僧で阿闍世について記したのは、源信和尚の『往生要集』に、阿闍世王は懺悔によって罪が滅せられたとあるだけです。

『観無量寿経』の解説書を書いた中国の諸師や善導大師には、阿闍世王は見られますが、親鸞聖人のように経説のメインに阿闍世王を取り上げた方はいません。

この本では、「阿闍世とは何者か」という点を、出来る限り多くの経典を読み解きながら明らかにするとともに、説話文学というジャンルをも注目しながら考察しました。

第一章 王舎城の悲劇

第二章 阿闍世の回心

第四章 教行信証行巻の阿闍世王太子

第五章 教行信証化身土巻にみられる阿闍世

予定

記録

論文要旨

永原智行(ながはら ともゆき)

【著作その要旨】

永原智行 『阿闍世のすべて 悪人成仏の思想史』法蔵館(平成26年2014年9月1日)

父親殺しの極悪人とされる阿闍世が登場する様々な仏教文献を博捜し、その苦悩と救済を突き詰め、悪人成仏の思想を研究した。悪人でも救われるという教えから、悪人阿闍世は仏の救済の目当てと親鸞によって大転換する。そのプロセスを検討した。親鸞は、王舎城の悲劇の登場人物を、三毒の煩悩に満ちた凡夫とし、人間の罪悪性をうきぼりにした。また、権化の仁として真実に誘引するために説いた。これらのことを考察した。

【先生の本に掲載した論文とその要旨】

浅井成海 『浅井成海編 日本浄土教の諸問題』永田文昌堂(2011年7月)

「法然上人における逆謗の救いの課題」

法然上人の逆謗観の特徴には、唯除の文を省略、悪を抑止して悪人を救済するが悪を認めずに憎む、対機説法として念仏と戒行の双修を説くなどある。本願のありようとしては悪正善傍であり、専修念仏者の実践としては善正悪傍である。社会情勢を配慮したのか、念仏を誹謗する人が謗法罪に堕ちるのを配慮したのか、謗法罪と一闡提については消極的である。逆謗について法然は対機説法的であり、相手により表現を変えていると考察した。

中西智海 『中西智海先生喜寿記念文書 人間・歴史・仏教の研究』永田文昌堂

(2011年12月)

「『阿闍世王経』と『未生怨経』の一考察」

『阿闍世王経』は阿闍世が悪人のまま無反省で、苦悩も『涅槃経』のように深淵ではない。『未生怨経』では阿闍世によって殺された父王にこそ、阿闍世の名前の本来の意味である怨みを生じない意味がはたらいている。『涅槃経』では善見太子とよばれ隠され、折指とよばれて陰では侮蔑され怖れられた阿闍世の悪性を『阿闍世王経』と『未生怨経』ではそのままに説いている。そのような阿闍世の罪悪を許すのが空であると考察した。

【学会発表と論文とその要旨】

龍谷教学会議『龍谷教学』

第40号 「親鸞聖人の阿闍世観」

(平成16年発表、平成17年発行)

「信巻」に示される阿闍世の苦悩の解明を中心に考察した。逆謗摂取について親鸞聖人が「信巻」で引く『涅槃経』の経文と漢訳『涅槃経』の違い、不可治から可治に転じる論理、王舎城悲劇の全貌をうかがい、殺父と、堕地獄におそれる阿闍世の苦悩をあきらかにし、阿闍世を救済できない六師外道の諸説を考察した。阿闍世は難化の三機の代表者であり、この阿闍世こそが如来の救いの対象者であることを考察した。

第42号 「親鸞聖人の阿闍世観(二)」―阿闍世にみられる難化の三機が救われる論理―

(平成18年発表、平成19年発行)

阿闍世が告白した罪の実態から五逆罪・謗法罪・一闡提を考察し、五逆罪や謗法罪の救済、見不見による一闡提の救いや親鸞独自の一闡提観をうかがい、親鸞の逆謗観・阿闍世観を明らかにした。難化の三機が阿弥陀仏により救われる論理を考察した。阿闍世は歴史的に一過性なものではなく、全人類の代表者である。現代人の苦悩の救いを弥陀の本願はどう答えているかを考えた。

第46号 「中国浄土教における逆謗の救いの展開」――浄影寺慧遠より善導へーー

(平成22年発表、平成23年発行)

慧遠と善導の相違を、韋提希観と逆謗論を中心に考察した。慧遠は、浄土をこの世の延長上とみて、九品を階級とみたために、悪人の救済には至らなかった。善導は、韋提希は凡夫であり、凡夫が救われることを説いた。善導は、廻心により本願力に摂取され、未造抑止と已造摂取により下品下生の救済が完成した。逆謗の悪人こそ本願救済の正所被であるとの悪人正機の仏意を善導が顕かにしたことを考察した。

第49号 「源信の逆謗観」

(平成25年発表、平成26年発行)

平安時代の浄土教において、千観と禅瑜と源信の逆謗を中心に考察した。千観と禅瑜は善導の影響のない天台教学に基づく聖道門的浄土教であった。源信は、『安楽集』と善導の下品下生からの十念論を受け、十念を十声の称名とした。臨終に下品下生の者も十声で滅罪するとしたが、平生は観念によるとした観称併用の念仏とした。一闡提は無信の者であり、仏性があるとした。

第52号 「『今昔物語集』にみられる阿闍世についての考察」

(平成28年発表、平成29年発行)

親鸞以外の諸師は阿闍世を説かなかった。親鸞以前の『今昔物語集』に仏伝として阿闍世が登場する。いかに阿闍世をみていたかを調べた。『教行信証』ではその一割近くを割いて王舎城の悲劇の顛末を解釈している。王舎城の悲劇を語ることで、逆謗摂取、悪人正機を完成させた。さらに王舎城の登場人物を権化の仁と阿闍世や韋提希を菩薩とみていた。『今昔物語集』の阿闍世をみることで、悪人正機の必然性をみることができた。

第54号 「行巻の阿闍世王太子についての考察」

(令和元年発表、令和2年発行予定)

親鸞聖人の当時の〈大経〉の成立順は、『平等覚経』『大阿弥陀経』であった。親鸞聖人は、行巻で『大阿弥陀経』『平等覚経』の順にひいて、『平等覚経』から阿闍世王太子得益をひいた。『無量寿経』に阿闍世王太子の話はない。この二経典の成立順と、『無量寿経』に阿闍世王太子の話がないことの意義を伺いつ つ、阿闍世王太子は誰であるかを考察する。

真宗連合学会『真宗研究』

第54輯 「阿闍世の廻心」

(第56回大会 龍谷大学 平成21年発表 、平成22年発行)

阿闍世の廻心に真宗の救済の奥義がある。阿闍世は、慚愧と「為阿闍世不入涅槃」の釈尊の説法によって救済にむかう。五逆の罪を犯した罪人が救われる論理、因縁によって苦悩するものが涅槃にいたる論理、無自性仏性のものが縁によって迷界に転じる論理、これらの論理に、はたらく如来の大悲をあきらかにした。自力にては転迷開悟のない阿闍世が、如来に遇い絶対他力の行信を聞いて、廻心して救われたことを考察した。

第56輯 「『論釈』と『九品往生義』を中心に十念と逆謗釈についての考察」

(第58回大会 大谷大学 平成23年発表 、平成24年発行)

『論釈』の十念は慈等の十念を具足する。『論釈』の八番問答は『論註』と同じと推察できるが、悪人往生の願とみた。『九品往生義』の十念は、弥勒の十念と称名の十念を会通しているが、称名の意義を自覚していない。逆謗について智顗の説を踏襲し、阿闍世は上根の者であり、その罪を強く懺悔しているから、往生は可能である。定善は観仏三昧で、散善は弱いので五逆罪は除けない。『大経』では不生であり、『観経』は往生を得る。

第58輯 「証空の衆生論」

(第60回大会 龍谷大学 平成25年発表 、平成26年発行)

善導法然を受容した証空の二種深信によって、阿弥陀仏による救済の論理をみる。他力を理解したうえで、自力雑行とした一切の諸行を正行として、本具の真実を顕現する。弘願に帰入したときが、平生往生の即便往生である。臨終往生を勧めるのみではなく、現世を重視して平生の即便往生を強調した。衆生の往生は阿弥陀仏の仏体の摂取である。凡夫の罪悪性を認めながらも、本来の真実を顕現すべきとの証空の衆生観を考察した。

第63輯 「『教行信証』における反切についての考察」

(第65回大会 浄土真宗本願寺派広島別院 平成30年発表、平成31年発行)

漢字の読みには、日本にのみ音読みと訓読みがある。音読みは、字音であり、呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音と種類が多いのも日本だけである。呉音は漢音以前に日本に定着していた発音で、六朝時代に中国南部の呉地方から直接、あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝えられたといわれる。

親鸞聖人は、『教行信証』において、十七文字十五種に反切を施している。筆者の研究方法は、反切のある字を仮名と、日本式ローマ字で示す。さらに、ウェード式とピン音も用いる。この二つの表記法を示して、今日の発音とも通じるかをも調べてみる。反切を施した意図を考察してみる。

日本印度学仏教学会

第62回 「律蔵に見られる阿闍世」(平成23年発表 第62回学術大会 龍谷大学)

『印度學佛教學研究』 60(1) 平成23年発行

『パーリ律』と『四分律』、『五分律』、『十誦律』、『摩訶僧祇律』、『鼻奈耶』の律蔵における王舎城の悲劇を考察した。律蔵に見る王舎城の悲劇は、阿闍世の人生の一面に過ぎない。殺父の悪王に過ぎず、事件は釈尊在世の歴史上の一事件に過ぎない。各部派仏教の系統によって、表現にその特徴を見ることができた。『大般涅槃経』のような苦悩者として描かれていないが、律蔵に逆謗の救済の原点があることを考察した。

第63回 「信心仏性」(平成24年 第63回学術大会 鶴見大学)

『印度學佛教學研究』61(1) 平成24年発行

衆生の往生成仏は、阿弥陀仏の本願力による。名号に仏性を成就し、この仏性を修めた名号が衆生に回向されて、衆生の信心となる。仏性は仏になる可能性ではなく、如来そのものである。「行巻」「真仏土巻」では所得の果としての果仏性である。「信巻」の仏性は、成仏の因としての因仏性である。如来回向の真実信心によって、報土往生の後のさとりに達する。因として信心は仏性であり、果としてのさとりも仏性であることを考察した。

第64回 知諸根力(平成25年 第64回学術大会 松江市)

印度學佛教學研究』 62(1) 平成25年発行

知諸根力は、如来が衆生の諸々の根機をわきまえる能力である。難化の三機にも仏性を見出して救済する。一闡提の有仏性を明らかにして、弥陀の大涅槃は一闡提の機を摂する。衆生諸根の不定を明らかにして、仏説もまた不定である。如来は常に対機説法で、広略相入・真俗無碍・相摂相融で、無碍自在に説法するのである。知諸根力は阿弥陀如来の本願力である。難化の機の転成は、知諸根力の仏の境界であることを考察した。

日本宗教学会『宗教研究』

第71回 「親鸞聖人の『華厳経』観」(71回学術大会 皇學館大学 2012年発表)

86巻4輯 2013年発行

親鸞にとって真実の教は、『大経』である。三部経の他に『華厳経』と『涅槃経』をはじめ多くの経論釈をもちいてその思想を補完している。本論文では『教行信証』の一乗海釈・信楽釈・善知識・普賢の徳を中心に検討した。連引の意図は、『涅槃経』の往相と『華厳経』は普賢の徳を説く還相の関係である。親鸞にとって『華厳経』は、浄土往生の経典であり、善知識・信心獲得者を如来と等しいと見る根拠であることを考察した。

第72回 「法然聖人所引の『弁顕密二教論』についての一考察」

(72回学術大会 國學院大学 2013年発表)

87巻別冊 2014年発行

法然の逆謗観は、五逆重罪は罪の根源であり、念仏によって罪の消滅を『涅槃経』ではなく、『大乗理趣六波羅蜜多経』を用い、空海の『弁顕密二教論』を引いて検証している。空海は下根下智の救済を、陀羅尼蔵と説き、法然は下品下生の救済を念仏に求めた。醍醐の妙薬でなくては、五逆罪を治療できない。聖道の教えの『二教論』を引いて、念仏はまさしくこの陀羅尼門であり、醍醐であると聖道の文を借りて述べていることを考察した。

第73回 「真宗と西山義の相違」(73回学術大会 同志社大学 2014年発表)

88巻別冊 2015年発行

証空と親鸞の本願観は、法然を師としながらも相違がある。二種深信、機法一体の相違をみる。機法一体を西山義、存覚と覚如では仏凡一体ととった。蓮如は、機は南無帰命の信心であり、法は摂取の法である。衆生の上におこる信心と阿弥陀仏の摂取の願力は一体である。仏からいえば、衆生を南無せしめ摂取したのが南無阿弥陀仏である。衆生領受からいえば、南無の信心は阿弥陀仏が届いたことをいう。これらの相違を考察した。

第74回 「平安後期浄土教の逆謗観」(74回学術大会 創価大学 2015年発表)

89巻別冊 2016年発行

源信は、『安楽集』や善導の説をとってはいるが、『論註』や『観経疏』を引いていない。『安養集』によって南都北嶺の文献が融合した。永観と珍海は、念仏に関しては法然と隔てているが、逆謗除取については影響を与えた。『往生要集疑問』は、逆謗の解釈に『往生要集』になかった善導を受容した。法然の『往生要集』の受容は、善導の本願正定業によるものである。平安後期浄土教の逆謗観の変遷を、『往生要集』から法然まで管見した。

日本宗教学会

第77回 「親鸞の反切について」(77回学術大会 大谷大学 2018年発表)

92巻別冊 2019年発行

親鸞聖人は、『教行信証』で「証・相・衍・膺・命・称・由・乗・局・淳・由・作・澠・擿・楽・宇」の各文字について反切を施している。本論文では、「証・膺・局・淳・楽・宇」について考察する。親鸞が反切したのは、教学的に注意を払ったところや、独特の表現のあったところであるとみていいだろう。その意図は、真宗教学的に重要性のある字で、「證・命・称・乗・局・淳・作・宇」である。音が違うと意味が異なる字で「相・澠・擿(二つ)・楽」である。発音より字義や文法をあきらかにする字で「由」がある。

親鸞が『教行信証』の漢字に反切を施したのは、宋をはじめ海外の仏教者に、日本の読みを示して、日本浄土教の神髄の『教行信証』が目に触れることもあろうという意思を持っていたと推察することができる。

教専寺 和歌山県日高郡由良町阿戸244番地
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