お斎のひと時(2018年9月、秋季彼岸会)
お斎とは、お寺での食事、仏事での食事を言います。
法事の時の食事も「お斎」といいます。住職は、法事の日程を決めるときに、「お斎があろうとも、なくても、逮夜参りをしてから、お参りに行きますので、11時にしましょう」と、いうのは、仏事の時の食事のことを言っています。
また、皆様が、逮夜参りのお布施を一年分まとめて納めるときに書く「おときまい」は、「お斎米」のことです。「お時米」ではありません。現在はお米ではありませんが、昔はお米でしたので、その名残で、「米」と書きます。
(合掌)
●多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
○深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
■「多くのいのち」について
私たちの食事は、「多くのいのち」をいただいていることの自覚をうながすために言います。現代は「いただきます」ということばをあまり言いません。お金を払っているのだから「いただきます」と手を合わせる必要はないように考える人がいます。感謝と慚愧の念がともなっているといいきれる人はどれほどいるでしょうか。ここに「多くのいのち」と明言することで、私たちの日々の食事は多くの動植物のいのちの犠牲の上に成り立っているのであり、そのいのちへ感謝と慚愧を明らかに示すことになります。私たちは多くの尊いいのちによって、今の自分が支えられている「おかげ」に気付くことで、感謝の心が育まれることでしょう。
■「みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました」について
「みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました」ということばは、目の前の食事を直接調理してくれた人、あるいは食材を運び届けてくれた人など、さまざまな多くの人たちのご苦労のおかげによることを示しています。
「みなさまのおかげ」は、広く言えばみ仏の御恩をも含めた尊いおかげを言います。「多くのいのち」ということばに、私たちの「慚愧」の思いを込め、「みなさまのおかげ」ということばには「感謝」の思いを込めています。
そしてこの二つを受けて、「深くご恩を喜び」と結び、食事を通して、単なる味覚ではなく「ご恩」を味わう機縁となることを願っているのです。
(合掌)
●多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
○深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
新「食事のことば」について
「食事」をいただく時に、私たちは何を思い、どのような思いをいだいているのでしょうか。
「食」 それは「多くのいのち」をいただいています。
「食」 そこには「みなさまのおかげ」がありました。
「食」 仏さまの「ご恩」を深く喜ぶことができます。
「食」 「慚愧」と「歓喜」の心でもって「仏恩報謝」につとめてまいりましょう。
食事の際に一人ひとりが「ご恩」を味わえるように、新「食事のことば」ができました。
従来から親しんでこられた方も、いままであまり口にされてこなかった方も、この新「食事のことば」を自ら声にだして、深く尊い「ご恩」を喜ばせていただきましょう。
仏様の手にはいろいろなポーズがあります。仏さまのこころをあらわしたもので、阿弥陀さんの手のサインは九種類あります。
浄土真宗の阿弥陀さんの右手は、施無畏印(せむいいん)といって、手を上げて手の平を前に向けた印相です。「恐れなくてよい」と相手を励ますサインです。左手は、与願印(よがんいん)といって、手を下げて手の平を前に向けた印相です。「死んだらどうなるの」というようなしなくてもいいような心配をする人に、「今できることを精一杯にしなさいよ」と励ましているのです。
阿弥陀さんの背中にあるのは何でしょうか?
あれは光背(こうはい)と言って、仏さまの光をあらわしています。光の筋がありますが、四十八本あります。
阿弥陀さんの四十八の願いをあらわしています。そして、背中に光背があるのは、私たちは人とけんかしたときや、いやな人と会ったときは背を向けますが、仏さまはどんな人に対しても、あなたに背を向けませんという意味です。いつでも私に向かい合っていてくれて、私を孤独にしないという意味です。
阿弥陀さんはなぜ立っている?
奈良の大仏さんは座っているのに阿弥陀さんはなぜ立っているのでしょうか?
座っている人は、どこかに行こうとすると、まずは立ち上がらなくてはいけません。すぐには動けません。立ったままだとすぐに動けます。阿弥陀さんは、いつでもどこでも今あなたの 所に来てくれるのですよ。たとえば、よちよち歩きの赤ん坊が、燃えさかるストーブの所に歩いて行ったとしたら、あなたはどうしますか?危ないという前にさっと走っていきませんか。
危ないことを危ないと感じない赤ん坊は、あなた自身です。自分の事なんて案外、よく見えないものです。阿弥陀さんは、危なっかしい私を見守ってくれているのです。
阿弥陀さんは蓮の上で立っています。
阿弥陀さん
阿弥陀さんは、蓮の花の上に立っています。蓮の花は泥沼に咲きます。
仏さまが泥の中にいるのは不自然かもしれませんが、泥こそ私たちの欲望をあらわします。満足のできないものです。不足ばかり言っていらいらして、わがままし放題なのが私たちです。その様子を泥にたとえています。その泥に蓮は汚れることはありません。その蓮の上で阿弥陀さんは、あなたの身も心もどろどろとしているところに入り込み、あなたをしっかりと見守ります、煩悩の心のままのあなたを離すことはありませんと、共にいてくれるのが阿弥陀さんです。
教専寺内陣
お寺やお家の真ん中に阿弥陀如来という仏様を御安置しています。お寺と家の仏様とは違うのはなぜですか?
お家の仏様は、絵で描かれた仏様で「ご絵像」といい、木で彫られたのを「お木像」といいます。「ご絵像」は「お木像」を絵で表したものです。どちらも「南無阿弥陀仏」をあらわします。
「南無阿弥陀仏」ってどういう意味?
「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀」というのは、インドの言葉で、「アミターユス・アミターバ」といいます。
むかしむかし、法蔵菩薩様というかたがおられて、先生の世自在王仏の前で「すべての命を幸せにできる仏さまになりたい」という願を起こしました。
そのとき「どんな人も照らすことのできる、光の仏さま」になることと、「いつの時代の人とも出会うことのできる、命に限りのない仏さま」になりますという決心を先生に誓われ、厳しい修行によって、誓い通りの仏さまになることができました。
誓い通り「いつでも、どこでも」(アミターユス)「だれでも(アミターバ)幸せにすることのできる仏さまになられたから「阿弥陀の仏さま」「阿弥陀仏」というのです。