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江南山天徳院教専寺 沿革

縁起

当寺10世の鳳山の「教専寺由来記」によると葦浦若太夫という者が、文明年間(1469-1486)に蓮如上人より名号をいただき、永正11年(1514)得度して西願となり、実如上人より方便法身尊形をうけたのに始まる。

五世淨祐の時、寛文13年(1673) 11月に寂如上人から阿弥陀如来を下賜され、寺号を天和3年(1683)に許された。

先の本堂は、元禄12年(1699)より着工し、同15年(1702)9月に完成した。同12年に「小袖の喚鐘」と呼ばれる喚鐘も完成している。

7世淨照院釋聞哲は「西海」と号して、漢方医学や文学や書に秀でていた。由良の風光明媚を聞哲が漢詩で読み、息子8世智定は「左傳」と号して和歌を詠んだ「安都十八景」が残っている。また、享保11年(1726)4月に和歌山藩では3ヶ寺目の東本願寺に転派している。しかし、23年後の寛延2年(1749)6月に戻った。

12世速成の時、文化四年(1807)正月16日に現在の本堂が建立している。「文化四年正月16日 本堂建立 教専寺第十二世住持 釋速成 生鑑二十六歳」という棟札が、平成16年11月29日に修復中発見された。

15世智芳の時、文久4年(元治元年1864)に1月6日と7日に、14代将軍徳川家茂公が、参与会議のある二条城に向かうために、軍艦翔鶴丸で大坂に向かう途中、当寺を本陣に休息された。その際、病弱の将軍は朝鮮人参を入れたお風呂にはいられ、蜜柑を召し上がった。その風呂桶は今に残っている。この時に葵のご紋をいただいた。蜜柑の木は「献上蜜柑」と今に残っている。この一行の中に勝海舟がいた。

18世智徳の時、平成6年(1994)1月27日に西本願寺の24代即如ご門主が日高組の巡教に教専寺に来られた。

19世智行の時、平成18年(2006)4月30日に、門信徒の浄財を結集して2年にわたる工事の末に、教専寺本堂鐘楼改築落成慶讃法要・親鸞聖人750回大遠忌法要等を執り行った。平成29年(2017)10月21日から11月26日まで和歌山市立博物館で、将軍様の風呂桶と古文書「公方様御碇泊諸事控」「乍恐奉願上候口上」を展示した。

History

According to "The History of Kyosho-ji Temple" by Hozan, the tenth chief priest of the temple, a man named Wakata Yu of Aishiura received a sacred name from Saint Rennyo during the Bunmei era (1469-1486). He was ordained in Eisho 11 (1514), taking the name Saigan, and received an image of Dharmakaya from Saint Jitsunyo, marking the beginning of the temple's history.

During the time of the fifth chief priest, Jōyū, in Kanbun 13 (1673), the temple was granted an image of Amida Nyorai by Saint Jakunyo in November. The temple name was officially recognized in Tenna 3 (1683).

The previous main hall of the temple began construction in Genroku 12 (1699)

教専寺 和歌山県日高郡由良町阿戸244番地
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